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ヒッチハイク
オーストラリア10000Km
それは私の初めての長期旅行でした。全財産をオーストラリアドルにしてもわずか1600ドル。まだ1ドル240円もしてた頃だった。(81年当時)ワーキングホリディのビザを持ってたから、仕事を見つけりゃどうにかなるだろうと思って。

しかしその時オーストラリアは10パーセントを超える戦後最悪の失業率。まして言葉も出来ない私に職探しも難しい。金があるうちに旅して無くなったら日本に帰ろう。こうしてシドニーを離れ、とりあえずメルボルンを目指す。

ヒッチ初日はシドニーからNOWRA迄200Kmを9台、この国は案外ヒッチしてる人が多いのでみんな解ってて乗せてもらいやすい。また親切に宿まで送ってくれたりもする。次の日にメルボルン、そしてアデレイド迄も二日でこれた。ここまではヒッチも楽だった。長くても2,3時間待てば乗せてもらえた。さすがにアデレイドから先パースまでは列車に乗った。あの砂漠をヒッチはちと考えた。ここは世界で一番長い直線の線路がある。
日本と違い線路も列車のサイズもオーストラリア、ゆったりしててとても快適。
 
パースに着きY.Hでスエーデン人より中古テントを10ドルで買った。これからはY.Hも少ないし、宿代も節約できる。でもこれからが大変だった。オーストラリアを甘く見てはいけない。パースから北上するハイウェイ、車が通らない。それでもとにかく車を待つ。

パースを出て次の日、1台の車が止まった。男が一人裸で運転してる。ビールを飲みながら。(オーストラリアでは日本と違い飲酒運転の基準が違い、少しぐらいなら酒を飲んでも構わない。)私もビールをもらい、車は北を目指しひたすら走る。夕日を浴び、赤茶けた大地を車は120Kmで進む。車の影が平坦な大地をさえぎる物もなく長くのび、その影がものすごく速いスピードで車を追いかけてくる。窓の外、野生のエミューが歩いてる。

ああ今私は旅をしてるんだなー、すごいところに来たんだなーと感じる時でした。結局その車で800Kmほど乗せてもらい、道路の脇でテントを張り1泊。次の日は暑くて、今まで着てた上着とトレーナーを脱ぎをTシャツ1枚になった。温帯から熱帯に変わったのである。

 一番長く待ったのがFitzroy Crossingというところで25時間!朝8時から夜の9時、テントで一泊し、次の日の朝6時より待って乗せてもらえたのが夕方6時。ロードトレインと呼ばれる大型トラック。トラックの窓から見える夕焼けは大地の色と同じ真っ赤だった。 その後、,ダーウイン、アリススプリングに向かう。エアーズロックにまではぼろぼろのジープが乗せてくれた。しかしその車はエアーズロックの手前で脇道へ。「あと15Km、すぐだよー」と言われた。

歩いても3時間だなと気にしてなかったが、辺りはもう薄暗くなり始めてた。だんだん暗くなりついにまわりは真っ暗。もちろん街灯もなく空には星一つ無く真っ黒、なんにも見えなくなった。唯一道路のセンターラインが黒いアスファルトとかすかに違うのが解るだけだった。そのうち雨が降ってきた。どうにか道路脇に木を見つけ雨宿り。とはいえ砂漠の木は葉っぱもなく体は濡れる。荷物からゴミ袋を取り出し頭からかぶり合羽がわりに。しかし体が急に寒くなる。10分ぐらいで雨はやみまた歩く。怖いので大きな声を出し歌を歌いながら歩いた。

その時明かりが見えた。あっ車だー!道の真ん中で大きく手を振り乗せてもらう。無事にエアーズロックのY.Hに着いた。その日は乾季が終わって初めての雨だった。 その後赤茶けた大地を離れ、緑豊かなクイーンズランドに向かう。(クイーンズランドでは昔ヒッチした女の人が殺される事件があったらしく、ヒッチハイクは禁止されてると聞いた。)
そしてやっとケアンズまでついた。そしてヒッチハイクの旅を終わりにした。 ケアンズの内陸で、タバコピッキングの仕事を見つけ、2ヶ月働き2000ドルの金を得て、ケアンズで500ccのバイクを買った。もう待つのはイヤになった。

 結局2ヶ月あまりで約85台の車に乗せてもらい、1万Km以上ヒッチハイクで旅した。
うち半分はテント生活だった。
車に乗せてくれたみなさんありがとうございました。


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ハノマン@沈没旅行者