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アジアの洗礼 (83’8月)
旅は楽しい、やはりアジアはやめられない!
シンガポールからインドネシアへ

オーストラリアに1年居た私は、ワーキングホリデーのビザとシンガポールエアラインの1年オープンのチケットが切れる為シンガポールに飛んだ。8月のオーストラリアは冬。シンガポールは赤道直下。とにかく暑い!泊まった宿も、シャワーは水しかでない、トイレに紙がない、またシンガポールの人はみな髪の毛が黒い。当たり前のことなんだけど、すっかりオーストラリアにはまっていた私はカルチャーショックを感じた。

また街に出ると、スーパーには日本の物が目に付く、しかも値段は安い。道を歩いていると、なんかやかましい、人が多い、店も多い。たくさんの荷物を積んだオートバイがヘルメットもかぶらずすぐそばをすり抜けていく。とにかくなんかすごい、そうだ活気があるのだ。これがアジアの活気なのだ。

食べ物もうまいし、何たって値段が安い。オーストラリアではジュース1杯の値段で腹一杯に食えてしまう。こんなのを知るとやめられない。やはりアジアは面白い

そして1週間ほどシンガポールに滞在した。本屋で情報を調べ、とりあえず、ジャランジャクサというところに安宿があるということだけを調べガイドブックも持たずにインドネシアに向かった。今から思うと”ガイドブック”という物を買ったことがない。いつも立ち読みしてメモをするか旅行者から聞いただけの情報で旅をしてた。

ジャカルタに着いた私は空港でどうしようか考えた。そのとき日本から来たツアーを見つけた。ちょうど添乗員を見つけたので聞いてみた。「ジャカルタの街までどうやっていけばいいの?バスはどこ?」今思うと無茶なことだった。その添乗員は「えっ?バス、そんな物無いんじゃあないの?」と言う返事だった。

その言葉を信じた私は仕方がなくタクシーで街まで行くことにした。後から知ったが空港を出てすぐそばにはきちんとバス停があった。オーストラリアに1年居た私はちょっと長い旅をしてると言う、自信があったが、旅の仕方という物をまだ知らなかった。タクシーの運ちゃんと片言の英語で会話をしながらジャランジャクサに着いた。その日はもう夜遅かったのでちょっと高いがホテルに泊まった。慣れない旅をして緊張した私はベットに横になった。

次の朝、お腹が空いたので朝飯を食べようと思い散歩がてら近くをうろついた。明るいジャカルタの街を見てちょっと安心になった部分とすごいところに来てしまったという複雑な気持ちだった。ジャカルタの街はまだ私が経験したことのない様な汚さとにおいのする街だった。そんなカルチャーショックを受けてもお腹は空く。有る屋台で地元の人がご飯におかずを乗せた物を食べていた。

とりあえずこれでいいやとその屋台に座りその人と同じ物を頼んだ。その隣の人はテーブルの上にあった赤い物を掛けご飯と一緒に食べていた。あっそうやって食べる物なんだなあと思い私もその人のまねをしてご飯の上にその赤い物を乗せ食べた。次の瞬間口の中で何かが爆発したみたいだった。

そう、それは唐辛子だったのである。まだアジアになれていない私の舌は完全に麻痺してしまった。味覚はいっさい無い、ただ舌の表面に熱さを感じる。なま暖かいご飯が舌に触れるたびにその熱さは増していく。うーこれはまずいと思いながらも冷静を装ってご飯を食べた。顔に脂汗を浮かべながら。このとき私はアジアのご飯の洗礼を受けたのだ。この辛さがアジアへの入場券だった。

インドネシアに来たのは実はまたオーストラリアに戻ろうと考えたからだ。始めての長い旅でオーストラリアがすっかり気に入ってしまった。そしてインドネシアでオーストラリアのビザを取りまた、友達の待つオーストラリア!と考えたのだ。しかし、ジャカルタのオーストラリア大使館で、「君はもう1年も居た。十分だ」とビザをくれなかった。まあ、せっかくここまで来たのだ、金もまだちょっとある。チケットも2ヶ月有効、バリまで行ってみようと思った。

ジャカルタを出て、bandung,pagandaranに寄り、ジョグジャカルタに着いた。その日は朝からずーっとバスに乗り続けてた。もう夜の9時を過ぎてた。親切な地元の人がバス停から、宿のある駅の方までバイクで連れていってくれた。お礼に免税店で買ったたばこをあげる、いらないと言う彼に無理矢理たばこを渡した。泊まろうと思っていた、Indonesia Hotelは満室だった。
仕方なく別の宿を探していると地元の人があるところを紹介してくれた。そこは狭く、汚く、うすい壁があるだけの連れ込み宿の一室だった。どこかの部屋から人の声が聞こえ、インドネシアの歌謡曲と思われる音楽が一晩中かかっていた。変なとこに来てしまったもんだ。

その夜私は一睡もできず、地獄の苦しみに耐えベットでのたうちまわってた。寝る前にお腹が空いたので”ミ・ゴレン”焼きそばを食べたのだ。どうもそれが当たったらしく夜中に突然お腹が痛くなり、トイレに駆け込んだ。すごい下痢だ!正露丸を飲んで様子を見たが、痛みは全然治まらず、その数時間後飲んだ正露丸はその形を残したまま液体の便の中に混じりトイレに落っこちてた。これはやばい!と抗生物質を飲み朝まで部屋とトイレを往復してた。

明け方やっとお腹の痛みが収まり一眠りできた。これは”これであなたもこの土地に慣れた証拠。おめでとう、お祝いのウエルカムパーティーです”というものだった。

ジョグジャはインドネシアの古都。何となく落ち着いたしっとりしている街だ。街の中心をマリオボロ通りが走っている。その道の脇には露天がたくさん並んでいる。バティックや民芸品が所狭しと並んでいる。なんか面白い独特の雰囲気があるところだ。また街の中はロバの馬車が走っていた。一番驚いたことはタバコを拾っている人が居たことだ。

そう、みんな吸って捨てたタバコを拾いそれをほぐしまたまき直して売っているのだ。聞くところによるとそのタバコはコクがあり、新しいタバコより高いらしい。変わった商売があるもんだ、こんな商売でやっていけるなんて良いところだとつくづく思った。

ジョグジャをあとにしてナイトバスでバリに向かった。外から見るときれいなバスだったが、中は汚い、シートも固い余りよく眠れなかった。デンパサールに着きバスターミナルにいた車でクタまで行った。乗り合いのベモだったが値段も聞かずに乗ったらすごい金額を言われた。仕方がなく金を払って宿を探す。だいぶはずれのところで安い宿を見つけそこに泊まることにした。バスでよく眠れなかった私は夕食を食べたあと部屋でウトウトと眠ってしまった。

真夜中に何か人の気配で目が覚めた。ドアより誰かが体を半分だけ入れベットの上の荷物を探っている。鍵を掛けずに眠ってしまっていたのだ。あわてて起きるとそいつはそばにあったカバンをつかみ逃げていった。私もすぐ追いかけたが寝起きで体が動かず、そいつは宿の塀を乗り越えどこかに消えてしまった。カバンの中には、パスポート、現金、トラベラーズチェック、航空券。これだけ有れば旅ができるという貴重品すべてが入ってた。

宿の親父が警察に連れていってくれた。そしてポリスレポートを作ってもらった。警察は日本領事館があるからそこでパスポートを作ってもらえと教えてくれた。次の日、デンパサールにある領事館に行った。事情を話すと領事官は冷たい視線で話をした。”バリ、地上の最後の楽園、ただしクタは除く!”といっていた。

とりあえず渡航書というパスポートの代わりになる身分証明書を作ってもらい、日本にコレクトコールで電話をして金を送ってもらいなさいなどといろいろ教えてくれた。とりあえず残っていたお金で渡航書の手数料を払ったらもうお金がほとんど残ってなかった。日本の親に電話をし、わけを話し送金してくれと頼んだ。しかし日本からインドネシアのバリ、送金が届くのに時間がかかった。

宿は朝食が付く。バナナをパンに挟んでトーストしたバナナワッフルとパパイヤとパイナップルのフルーツサラダ、そしてぬるくとても甘い紅茶。昼はビーチの屋台でナシゴレン(チャーハン)を食べた。夜は金がないので食べずに我慢した。

宿のボーイがこっちに来いと私を呼んでくれた。彼は朝のトーストに使うパンの耳を食べていた。そしておまえも食べろと言ってくれた。その言葉に涙ぐみながら一緒にパンの耳を食べた。そしてゆっくり味わって噛みしめ水で喉の奥に流し込んだ。

数日後、たまたま知り合った日本人に訳を話しお金を貸してもらった。やっとお腹いっぱいご飯を食べることができた。その翌日、銀行に送金が届いていた。彼にお金を返し、ウブドゥなど一緒に旅をした。(そのとき”ハノマン”という名前を貰った)渡航書の有効期限が1ヶ月という事でジャカルタに戻った。

ジャカルタで出国の許可をもらわなければならなかった。パスポートがない私は入国のスタンプがなく、イミグレに行き数時間待ち、入国カードを調べてもらい、入国のスタンプを渡航書に押してもらった。日本までのチケットを買い数日後インドネシアを離れた。

このシンガポール、インドネシア、2ヶ月の旅でオーストラリア1年の旅がなぜか
影が薄くなってしまった。日本に向かう飛行機の中で次の旅の予定を考えていた。旅は楽しい、やはりアジアはやめられない!
こうして私のアジア旅行が始まった。

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