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ベトナム、ホーチミンにて
タイで働いて頃、3ヶ月に一度ビザの更新のため、出入国を繰り返してました。
それは忙しい毎日から解放される大事な休暇でもあります。
ある時「どうせ行くならマレーシア、のペナンばかりでなく、まだ行ってない国に行きたい!と思いベトナム行きを考えました。
そのころはまだベトナムも個人旅行はできず、ツアーに参加しなければビザがおりませんでした。社長に、「ビザの更新のためベトナムに1週間ほど行きたいのですが・・・」と話すと、「1週間は長い、金は出してやるからもっと短くしなさい。」と言いました。早速安いツアーを探し、2泊3日のホーチミンを予約しました。エアラインは、エールフランスも同じ料金でしたが、あえてベトナム航空を選びました。

出発の当日、どんな飛行機かと楽しみにしてると、搭乗ゲートは古いターミナルの1階。バスで飛行機に連れて行かれました。機体はソ連製「ツポレフ」という機種。ボーイングとは全然違うなあと思いながら乗り込み、左右2列の小さな飛行機はバンコクを離れ一路ホーチミンへと向かいました。

ホーチミンの空港は何か国内線の小さな飛行場という感じでした。銀行のカウンターでお金を両替すると、たくさんの札束が来ました。ちょっとお金持ちになった気がしましたが、財布に入りきらずそれもまた困ったことでした。出迎えの人を捜したのですが誰もおらず、何とか別のツアーの車に乗せてもらいホテルに着きました。(ツアー業界ではよくあること)ホテルではガイドが待っていて、「前のエールフランスでくると連絡があったのだけどこないので帰った」と言ってました。まあここら辺の適当なところもベトナムだろうなあと思いながら(私も同じ仕事をしてるし)、あまり腹も立ちませんでした。

ホテルはテレビとバスタブがありきちんとお湯も出ました。「スリクルンよりちょっといいぐらいかなあ」と思い満足して、久々の休暇を楽しんでました。ホテルに泊まってる客はフランス人とロシア人が多かった。

夜は屋台で何か得体の知れない料理を食べました。「おいしいんだけど、やはりタイ料理の方が好みだなあ」それが私の感想でした。
朝にフランスパンの屋台が出てとてもいい香りを町に漂わせてました。

市内観光

次の日、ガイドが来てホーチミンの市内観光に連れていってくれました。古いけどきれいにしている車にお抱え運転手とガイドが前に乗り、後ろには私一人。エージェントが私のために日本語を話すガイドを手配していてくれました。
ホーチミンの町並みは長いフランス統治の影響が建物に残ってました。その中を中国のようにたくさんの自転車が行き交い、(まだバイクも少ない頃)車はトラック以外はほとんど走ってませんでした。ベトナムの民族衣装アオザイを来て円錐形の帽子をかぶる若い女の子が自転車に乗ってるのが異国の味わいを深めてくれました。  

古いお寺、(漢字が書いてある、昔はベトナムも中国の支配下にあった。)おみやげやさん(漆細工の店とべっこう細工のお店)にも連れていってくれました。ここで何か買うとガイドに少しリベートが入るのかなあなどと同じ職種の私は考えてました。
 
ちょっと驚いたのが戦争博物館でした。
実際に戦争で使った戦車、ジェット機、枯れ葉剤の入ってた爆弾旧フランス領だからか
ギロチンまでありました。建物の一角で写真を見つけました。それはあの有名なシャム双生児。ベトちゃんドクちゃんでした。
そのほかシャム双生児、奇形児の写真本物のホルマリン漬けまでありました。
ちょっとこれにはショック!
そんな古い昔の話ではない頃実際にこんな事が起こったベトナム。もう今はみんな明るい顔をしてるけど、戦争の心の傷は癒えているのかなあと考えさせられました。

市場にて

ある市場へ行ったときでした。ぶらぶらいろんな物を見ているときでした。2重のガラスの中に色の付いた液体が入っている小さなワイングラスの飾りを見つけました。きれいなので手に取ってみようとすると、それは不良品だったのか穴があいて壊れてしまいました。店のおじさんはあっこれはだめだと言う顔をしてそれをひょいっと取り後ろに除けました。そして私が「なんだ作りがよく無いなあ」と思い帰ろうとしたとき、隣からおばさんが血相を変えて飛んできました。どうも売っていたおじさんの奥さんのようで近くで別の物を売っててその様子を見てやってきたのである。
私にワアワアベトナム語でわめき立てます。「おまえはうちの商品を壊してそのまま行くつもりか!」私は身振り手振りを混ぜながら説明しました。「これは私は壊すつもりではない、軽くふれただけで壊れた、商品が悪いのだ。」おばさんは「違う、おまえが壊したのだ。」
「そんなことはない私は軽くふれただけだ。」おばさんに負けないような大声を出し私も自分の正当性を主張した。

もちろんすべて日本語で。おばさんもベトナム語で話している。英語が通じるとも思えない。ましてや私もベトナム語なんか知らない。しかし私の耳にはなぜかそのおばさんが日本語で話しているかのように言ってることが解る。そしておばさんにも私の言ってることが伝わっている。そんなことを繰り返していたらいつの間にか私の周りには何事かと目を輝かせているたくさんの人垣ができていた。そしてそのおばさんの勢いもすごい物になってくる。そのうちなんだかまずい感じがしたので、さっとお金を渡しその場を後にした。周りはみんなベトナム人、どうせこちらは観光客。変な意地を張って大問題になってもいやだ。問題を起こしにこの国に来たわけでもない、私にとっては少しのお金でも彼らにとっては大金だろうし。そう自分に言い聞かせた。
しかしあのおばさん怖かった。
(その後、近藤紘一の「ベトナムから来た妻と娘達」に書いてあった。「ベトナムの女の人は強い」と。何となく安心した。)

出国

ガイドと運転手にチップを渡し、イミグレを通った。ある全部新品と思われる服装をしていた小学生ぐらいの男の子に眼があった。これからアメリカの親戚の所に1人で行くと英語で答えた。アメリカに移住でもするのだろうか?ビザのとりやすい子供を先にやり、その子が後で家族を呼ぶのであろうか?その子の眼は希望に輝いていた。
ベトナム人ってたくましい人達だなあ、とおもいました。

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